グイノ神父の説教
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年間第2主日 C年 2010年1月17日
イザヤ書 62章1−5節 コリントの信徒への手紙T 12章4−11節 ヨハネ2章T−11節
聖ヨハネは奇跡の話を語りません。 彼は発見したメッセージを与えます。 彼の話の中心要素は6個の大きな水がめです。 それらは清めの儀式に使われます。 一つ一つのつぼは100リットル以上入り、結婚式が執り行われた個人の家で6個もの水がめが置いてあるのはむしろ奇妙です。 水がめはモーセが十戒を彫り込んだ2枚の石版のような石で出来ています。 ここで大切な事はこれらの6個の水がめが空である事です。 そのことは、人々を満たす事が出来ず、清さと不潔さ、許された事と禁止された事の間で人々を生きさせる古い契約を表しています。
イエスはこの清さと不潔さ、すすぎと犠牲の宗教を、たっぷりと与えられたこの新しいぶどう酒で象徴される愛の契約と取替えようと来られました。 後で、イエスはご自分が古い契約を廃止するために来たのではなく、完成するために来たと説明されます。(マタイ5章17節) 水がめの数は、6個で、それは7つと言う完全な数からは確かに不完全で、一つ欠けていることを表わしています。 イエスは水がめを水で一杯にするように命じられます。 彼は清めの水を会食者の喜びのために、新しいぶどう酒に変えて 聖書を完成されます。 この印によって、イエスはご自分が神の王国の喜びを与えられる方である事を示されます。
イエスの洗礼の時から、聖ヨハネは過ごした日々を注意深く数えています。 この日は6日目に当ります。 創世記では6日目が神が人間を創られた日と対応しています。 従ってイエスは新しい人類を創りに来られる方です。 聖ヨハネの福音全体にわたって、彼はイエスを新しいアダム、マリアを新しいエヴァとして示し、そうして、建設するために来られた王国を、新しい創造として示します。 イエスとマリアはこの婚宴に同じ理由で出席していません。 ヨハネは「カナで婚宴があって、マリアはそこにいた。 イエスも招かれていた」とはっきりと明言しています。 マリアはそこにいました。 と言うのは彼女が旧約時代に属していたからです。 マリアがイエスにぶどう酒が足りない事を知らせた時、イエスは今、飲み尽くしたこのぶどう酒は 過去に属するとマリアに答えられます。 つまり「あなたと私に何の関わりがあるのですか?」といわれます。 イエスがもたらす新約時代は、この日には印を示しているに過ぎません。 というのはイエスの時、受難の時はまだ来ていないからです。 マリアはぶどう酒が足りない事をイエスに目立たないように合図するだけで満足します。 マリアは、むかし、禁じられた木の実をアダムに与えたエヴァのように、イエスを試したりなさいません。 マリアが過去を断ち切るように招くことで、イエスはマリアを教会の母、新約時代の母とします。 信仰に強められてマリアは、「彼の言うとおりにしなさい」と召使に言うことが出来ます。
イエスの時はまだ来ていませんでした。 その前、彼は旧約時代にしがみついている人々を批判する事でしょう。 彼らは花婿に呼びかけ批判する宴会の世話役で象徴されています。 世話役は今までの慣習上の規則に従わないのをとがめ、先ずよいぶどう酒を差し出さなかった事を非難します。 このように、律法学者はイエスが伝統に従わないと、しきりにとがめるのです。
私たちは新約時代に属する者ですから、イエスによって成就された印は、私たちを新しい被造物、聖霊に満たされた者となるように招いています。 信仰によって私達は、神の子羊の婚宴に招かれている者(黙示録19章9節)となりました。 それは神の国の新しいぶどう酒を飲むためです。(マタイ26章29節) カナの婚宴においては、花嫁は不在です。 と言うのは、この花嫁とは私たち、信徒です。 イザヤの預言「花婿が花嫁を喜びとするように、あなたの神はあなたを喜びとされる」が実現されるように、神の愛が私たちを助けてくださいますように。 ア−メン。
年間第3主日 C年 2010年1月24日
ネヘミヤ記 8章1−10節 コリントの信徒への手紙T12章ー12−30節 ルカ1章T−4節21節
神のみ言葉が今日の日曜日の主題です。 第一朗読は神のみ言葉を聴いて動揺し、泣いている群衆を示しています。 人々の前でエズラは聖書を読んで説明しますが、実際は説教をしました。 この聖書のテキストに馴れていた人々も、忘れてしまっていた人々も、もう一度発見します。 神のみ言葉は彼らの心に触れ、人々の心から、神ご自身の喜びが溢れ出ます。 「主の喜びはあなた方の砦」とエズラは説明します。(ネヘミヤ6章10節) 実際、神のみ言葉はそれを守る人すべてにとって、喜びと保護です。 何世紀か後で、イエスは同じ事を言うでしょう。 「幸いなのは神の言葉を聴き、それを守る人である」と。(ルカ11章28節)
聖パウロは一致について語ります。 洗礼によって、私達は神のみ言葉であるキリストと一致させられました。 聖霊に動かされて、私達はキリストと共に一つの体になるしかありません。 キリストのメンバーであるから、私たちはキリストと、その苦しみと栄光と喜びを分かち合います。(Tコリント12章26節参照) 実際は自分の心の中で、神のみ言葉を守り、黙想する人こそ、キリストと親密に一致しています。 キリストの持っているものはすべて、分かち合います。
信じることの出来る人の証しに基づいて、ルカは自分の福音を歴史の中に置くことで始めます。 ルカは彼らを「み言葉の僕」と呼びます。(ルカ1章2節参照) その後でルカはすぐに、私たちにみ言葉の本当の僕イエスを示します。 イエスはまず尊敬の印として、立ったまま、預言者イザヤの言葉を、宣言します。 しかしこの朗読の終わりに、律法学者と聖書の専門家達が教える時にするように、イエスは座ります。 イエスは権威をもって教えるのです。 「この聖書の言葉は、今日、あなた方が耳にした時、成就した」(ルカ4章21節)と。 このように言いながらイエスは、神のみ言葉は歴史の時の中に、凝固していない事をはっきり言います。 神のみ言葉は過去の話ではなく、ただ単なる教義的教えでもありません。 神のみ言葉は永遠です。 神のみ言葉は昔から、永遠に、命と喜びの泉であり、私たちの足もとのともし火、人生の城壁です。
私たちは度々神のみ言葉が言われたとおり実現する効果的な言葉だということを忘れがちです。 この大切な事を覚えていないから、私たちは自然に、聖書を読む望み、神のみ言葉を味わう喜びを失います。 そういう訳で、ミサのとき、宣言される朗読を漠然と聴いているし、まして司祭がこの朗読について、説明する時、彼が何について話しているか、全く分りません。 結局、み言葉に対する私たちの注意の欠如は、生きているみ言葉であるキリストとの一致を失う危険があります。 ところで、ゆっくりもう一度読むために、また、自分の日常生活の岩とするために、私たちのうちのどれほどの人が、「聖書と典礼」を家に持ち帰っているでしょうか!
神のみ言葉を聴くだけで、イスラエル人は嬉し泣きをしました。 私たちは神のみ言葉をもっと聴こうとしない事を恥じて、泣くべきではないでしょうか? 今日、今、あなた方に話している時、神のみ言葉はあなたに触れ、聖霊の力であなたのうちに行動しようとしているのです。 神は御子イエスを与えられるほど私達を愛されました。 そのイエスは肉となったみ言葉です。 イエスのすべては、(その言葉と行ない)神について具体的に私たちに語っています。 そのために、朗読者、または、説教者がこの命の言葉を宣言する時、私たちは無関心に、ぼうぜんとした無感動に留まるようなことは許されません。 同様に詩篇を歌う時、私達の心は私たちの唇が歌う言葉と一致しなければなりません。 ですから聖霊に益々キリストと私たちを一致させてくださるように願いましょう。 今日と過ぎ去る全ての日々に、み言葉によって、ご自分の命と永遠の喜びを私たちに与えようとされる神に感謝する事を学びましょう。 アーメン
年間第4主日 C年 2010年1月31日
エレミヤ書 1章4−19節 Tコリントの信徒への手紙12章T−13章13節 ルカ4章21−30節
「預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ!」 エレミヤが予言し始めたとき、イスラエルの国は平和を謳歌していましたが、指導者たちや民全体は神の掟を軽蔑し、堕落した生活を送っていました。 人々の不意をついて、エレミヤは近いうちに国中に困難と大損害を与える強い侵略者が襲ってくると、知らせました。 その日から、エレミヤは何回も皆から軽蔑され、追い出され、迫害されながら、かろうじて死から逃れました。
イエスの言われることを聞きながら、ナザレトの人々は驚きから怒りに移っていきます。 実際、イエスはご自分を預言者エリヤに例えられます。 最初は、人々はエリヤのいうことを聞きましたが、殆ど同時に、民全体から追い出され、殺されるのを避けるために、異邦人の国へ逃げなければなりませんでした。 エリヤを引き合いに出しながら、イエスはご自分もまた追い出されるが、異邦人が自分の言葉を受けいれ、自分を信じるだろうと言明されます。 イエスがナザレトの人々の間で成長されたから、彼らはイエスをよく知っていると思いこんでいます。 そういうわけで、彼らはイエスの神秘を受けいれることも、彼を信じることも出来ませんでした。 勿論、今のところ、イエスはご自分の説教と奇跡によって群集を惹きつけています。 しかし、間もなく、エルサレムの町の外で、十字架に付けられるほど、ひそかに見張られ、反論され、攻撃を繰り返されるでしょう。
信仰のうちに眠っている人々を目覚めさせ、また人生に意味がないと思い込んでいる人々に希望を取り戻させる事を知っている預言者を、この世は必要としています。 洗礼の時に受ける塗油式によって、私たちは預言者となりました。 しかし、今日、どのように預言者であることが出来るでしょうか? 先ず、周囲の人々の普通の振る舞いとは反対の流れを取ることです。 アッシジのフランシスコは次のように言っています。「憎しみのあるところには、愛をもたらしなさい。 悲しみを見出すところには、喜びをもたらしなさい。 不和のあるところには、平和をもたらしなさい。 いさかいのあるところには、赦しをもたらしなさい。」と。 私たちはまた、神のみ旨をどのように行なうかを見分けるために、祈りの時を充分取らなければなりません。 私たちがどうでもいい事をしないように、預言者たちのように聖霊に満たされて、聖霊に導かれる必要があります。
エレミヤ、イザヤ、イエスは、聖霊によって導かれる大切さを思い出させます。 「神の霊は私の上にある」とイエスは宣言されます。 そう言いながら、イエスはご自分の父である神との親密な関係を私たちに理解させようと努力されます。 ヨセフの息子である前に、イエスはまず第一に神の子です。 私たちが同様に、神との親密な関係を生きるようにイエスは招かれます。 何故なら、確かに神は私達の父、私たちは神の子で、永遠の愛で愛されています。
「私はあなたを母の胎内に造る前から、あなたを知っていた」と神はエレミヤに言われます。 誕生の日から私たち一人ひとりは神にとって、ユニークな者、唯一つの者です。 私たちに対する神の愛の出発点はここにあります。 聖パウロが愛は無条件であると説明しています。 貧しい人々に、いくら人が自分の持っているものをすべて与えても、愛を与えることは出来ないし、自分自身を犠牲として捧げる事で、愛を与えることも出来ません。 それは全く逆です。 愛こそが私たちの持っているものを分かち合い、自分を犠牲として捧げる事を可能とします。
この愛は、私たちが何かをしようとする前から、神が私たちに与えています。このように、イエスは、ご自分の命を捧げる前に、まず、御父の言葉「あなたは私の愛する子、私の心に適う者」とご自分に言われるのを聞きました。 信じるとは、私たちを愛するという神の言葉を受け止め、その愛を自分のうちに守ることです。 信じるとは、神から委ねられた使命を忠実に実現するために、神に完全な信頼を示す事です。 しかし、ただ祈りだけが、私の使命が何であるかを示すことができます。 ただ聖霊だけが、主が私たちに望まれる事を実現するために、私たちの心から愛の飛躍を湧き出させる事が出来ます。 ですから、神の愛の中に留まりましょう。 そして、聖霊が何時も私たちの上に注がれるように祈りましょう。 アーメン。
年間第5主日 C年 2010年2月7日
イザヤの預言 6章1−2a3−8節 1コリントの信徒への手紙 15章1−11節 ルカ 5章1−11節
今日の朗読は3つの出会い、3つの呼びかけ、3つの反応について語っています。 神からの使命を受ける人の最初の反応とは先ず、自分の無能を叫ぶことです。 エルサレムの神殿で、イザヤは突然神の偉大さと罪人としての自分の立場について自覚しました。 彼は直ぐに「災いだ。 私は滅ぼされる。 私は唇の汚れた者」と叫びます。 異邦人の許へ、復活されたキリストに使わされたパウロは、「私は神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でも一番小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です」と述べています。 ペトロは奇跡的な漁に感動して、イエスが神に近い方であると推察します。 イエスの前に平伏し、彼は謙遜に「主よ、私から離れてください。 私は罪深い者なのです」と願います。 彼らの欠点や恐れにも拘らず、イザヤ、パウロ、ペトロは彼らの使命を果たすことで、この世を変えました。
神は私たちの人生が非常に豊かになるように、私達一人ひとりに使命を与えられます。 私たちがそれを充分に信じていないことが問題です。 神は私たちと共におられることを忘れがちで、神を避けるために弁解を捜します。 「私は忙しすぎる。 私の信仰はそんなに強くない。他の人達は私よりもそれに向いている。 私は年を取りすぎているとか、若すぎる」とかなどです。 パウロが自分の弱さについて語る時、逃げるためではありません。 反対にそのことは自分の使命を実現するために勇気と信頼を与えます。 「神の恵みによって今日の私があるのです。 そしてに私に与えられた神の恵は無駄になりませんでした」と。 と言うのはパウロにとっては、「生きるとはキリストである」ことなのです。(フィリピの信徒への手紙1章21節) 彼が上手であろうと、そうでなかろうと、重要な事ではなく、彼は力を弱さから引き出します。 「誇る必要があるなら、私の弱さに関わる事柄を誇りましょう」(2コリントの信徒への手紙11章30節)
私たちの無能、私たちの欠点、私たちの弱さを口実にして、主に「いいえ」と言うのは易しいです。 しかし神は私たちに肯定的な答えを期待されます。 私達が選ばれるのは、私たちが愛されているからです。 神の呼びかけは、神の愛の具体的な証し、信頼の印です。 イザヤ、ペトロそしてパウロは、ありきたりの人であり、神が彼らに委ねられた使命のために、なにも準備されていませんでした。 彼らが聞いた呼びかけは、それに対する彼らの答えも、直ぐに彼らを変えます。 彼らは自分たちの答えによって、そして神の恵みによって、新しい生き方のために、新しい人になります。
神は昔、イザヤ、ペトロ、パウロに言った事を毎日、また私たちに言われます。 つまり、「静かにしていなさい。 恐れることはない」(イザヤ7章4節)「前進しなさい」(ルカ5章4節)「私の恵はあなたに十分である。 力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(2コリント12章9節)などです。 神が私たちを選ばれたのは、私たちを恐怖から信仰へ移らせるためです。 神が愛を私たちに与えてくださるのは、私たちの人生を全ての人のための救いと恵みの源とするためです。 このことを信じるなら、またそれに私たちの生き方をぴったり合わせる事を承諾するなら、その時、私たちは神の親しい友となり、神の聖性と喜びの中に入り、神の栄光が私たちの行動の全てを、例え全く普通のことであろうとも、すべてを覆うでしょう。
洗礼によって私たちは、キリストの証人となり神の子となりました。 そのために、パウロの忠告を思い出さなくてはなりません。 「神の協力者としてあなた方に勧めます。 神から頂いた恵みを無駄にしてはいけません。」(2コリント6章1節) ですから、私たちの周囲で、出会う人々皆を自分の祈りの中に留めながら、私たちの信仰の証を恐れずに広げるように努力しましょう。 もし私達が神と親密に一致するなら、神の恵みは私たちに十分であり、その力は私たちの弱さに応じて十分に与えられるでしょう。 これこそ、私たちと共に、私たちの為に、神が今日実現したいと望まれる奇跡です。 アーメン。
年間第6主日 C年 2010年2月14日
エレミヤ 17章5−8節 Tコリントの信徒への手紙 15章12、16−20−節 ルカ6章17,20−26節
マタイによれば、イエスは幸福についての9つの言葉を宣言するために、山に登られました。 この幸福は多かれ少なかれ、遠い未来に与えられるものです。 ルカにとっては幸福と不幸は今宣言されるものです。 昔、モーセは神の十戒を宣言するために、シナイ山からおりてきました。 イエスは一晩中祈られた後、山から下って、平原に集まった人々に、生活の新しいやり方や新しい考え方を宣言されます。
イエスは「後で幸せになるでしょう」とは言われず、「今日あなたは幸せです」と言われます。 イエスは「いつかあなたへの報いは大きいでしょう」とは言われず、「既にあなたへの報いは大きい」と言われます。 イエスにとって貧しいという事実は、知られていない幸せを引き出すものです。 貧しさのなかでも、人は神にあって幸せになることが出来ます。 猛烈に腹が空いて体を締め付けるような飢えがあっても、人は完全な喜びに満足する事ができます。 イエスは私たちの見方を変えようと望まれます。 所有しているものの上に、あらゆる基礎を置くべきではありません。 人生は人間的な生き方の短い間だけだと考えてはなりません。 「もし私たちがこの世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、私たちはすべての人の中でもっとも惨めな者です」(Tコリント15章19節)と聖パウロは書いています。 神に対する私たちの信仰は、他の生き方、見方、考え方をするように強くうながします。 何故なら神は権力を振るう者を倒して、謙遜な者を引き上げられるからです。 飢えた者をよい物で満たし、富める者を空手で追い帰されます。(マリアのマグニフィカト参照)
エレミヤが第一朗読で既に言った事を、新しい方法でイエスは繰り返されます。 エレミヤは消え失せるものに信頼を置く人と、神に信頼を置く人とを対立させます。 前者は荒れ果てた荒地のように全く実を結ばず、後者は多くの実を結ぶ、よく潤された土地に似ています。 そこでイエス、パウロ、エレミヤは、神以外のものに希望を置くこと、それは偶像を造る事だと言っています。 自分の豊かさの中で幸せを見つけようと望むことは、砂の上に自分の人生を築くことです。 自分自身に対してだけすべての注意を向けることは、不幸の風を選ぶ事です。
どんな豊かさをもっていても、私たちは皆、貧しい者です。 私たちの存在に関する貧しさは、遅かれ早かれ私達は皆、死ぬ者だと言うことです。 何時か私たちがしたこと全ては忘れ去られ、私たちと共に消え失せるでしょう。 しかし、もし神の前で自分の貧しさを認めるなら、必ず、ゆるぎない豊かさを受け取る事が可能になります。 これこそパラドックス(逆説)です。 この豊かさとは一体何でしょうか? 勿論、イエスが私たちに語っている豊かさです。 つまり、永遠の命の遺産、神との深い親密さ、天使と聖人の喜び、神との完全な一致という豊かさです。 何故なら神は、ご自分のうちに自分たちの豊かさを見つける恵まれない人達の父です。 同時に、ご自分のうちに、謙遜に自分たちの惨めさを見つける恵まれた人達の父でもあります。
幸福の幻覚を与えるものに注意するようにと、イエスは私たちに言われます。 本当の幸せは、神の内にだけあります。 いくら人間が自分の限界を超えようとしても、それはただ幻の逃亡でしかありません。 確かに、私たち一人ひとりの中には、絶対的に必要なものがあります。 神だけがそれを満たす事ができます。 そういうわけで、私たちの信頼を絶え間なく神に言い現しながら、私たちの眼差しを神に度々向けなければなりません。
「神よ、守ってください。 あなたを避けどころとする私を。 あなたは私の主。 あなたのほかに私の幸いはありません。」(詩16、1‐2) 詩篇のなかの懇願の祈りは私たちの信頼を表す助けになります。 そして詩篇40の5節は次の事を約束します。 「いかに幸いな事か、 主に信頼を置く人。」とか、また「主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人、 その人は流れのほとりに植えられた木。」と。(詩1章2−3節) もし私たちが神に対する信頼をこのように持ち続けるなら、疑いもなく、キリストによって約束された幸せが、私たちを豊かに満たすでしょう。 アーメン。
年間第11主日 C年 2010年6月13日
サムエル下12章7、10−13節 ガラテヤの信徒への手紙2章16,19−21節 ルカ7章38−8章3節
ダビデの罪はよく知られている不倫と計画的殺人です。 ダビデは自分に王権があっても、律法を守らなくてはならない事を知っていました。 ダビデが預言者ナタンに「私は主に罪を犯した」と言った時、彼は罪は律法に違反する事ではないと分かりました。 罪は愛によってイエスラエルの民に律法を与えられた神を軽蔑することです。
ファリサイ人、シモンの家に入ってきた罪の女は、自分の罪が神を傷つけた事を知っていました。 泣きながら、彼女は慈しみの愛と出会う為にやって来て、もう罪を犯さないと言う自分の決意を、公に表明します。 この婦人は売春と言う自分の仕事では習慣になっている動作で、信仰を現します。 彼女は他のやり方を知らないのです。 彼女は自分の唇、手、髪の毛、香水に自分の涙を加えて、信仰を表わします。 イエスにふれながら、自分が赦されたという事を彼女は感じます。 イエスの慈しみの眼差しは、彼女が罪人であり売春婦であるという状態から、全面的に自由になった事を立証します。
彼女に神の赦しをもたらしたものは、彼女の涙でもなければ、高価な香油でもありません。 彼女は自分がもと通りになれない事を知っていましたが、イエスに対する完全な信頼を示しました。 「あなたの信仰があなたを救った。 安心して行きなさい」と赦しを与えながら、イエスは率直に言われました。 イエスは彼女に「あなたの信仰があなたを救った。 だから、心配せず、そのことは考えないで!」とは言われません。 むしろ、「あなたの信仰によって、あなたはそうであってほしいと神が望まれている人になりました! さあ、行きなさい、そしてあなたが罪から解き放たれた婦人である事を、皆に見せなさい!」と言われます。
ファリサイ人シモンは自分が律法を守っているから正しい人であると確信しています。 彼は罪の女と彼女をしたいままにさせるイエスを軽蔑しています。 ファリサイ人聖パウロはシモンと同じように考えました。 ダマスコの道でのキリストとの出会いで、彼は自分の正義の故に、盲目になったと分かりました。 パウロのうちで神の愛の光に満ちた道を開き、彼のものの見方を全面的に変えるのに、ただ暗闇の中での3日間で、十分でした。 ガラテヤの信徒への手紙の中で、パウロは律法への服従ではなくて、ただ救い主イエスにおける信仰が、物事に対する正しい見方と命を与えると説明しています。 「私が今肉において生きているのは、私を愛し、私の為に身を捧げられた神の子に対する信仰によるものです。 私は神の恵みを無にはしません。 もし人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそキリストの死は無意味になってしまいます。」(ガラテヤ2章20,21節)
私たちは罪と回心の意味が分かっていません。 なぜなら私たちは罪を過ちのように考え、神に対する愛の欠如だとは考えないからです。 赦しの秘跡は本当に神の現存の前に、自分自身と自分の行いの真実の姿を置くという恵みを与えます。 重要な事は、一種の恥ずかしさをもって、自分の罪を告白することではなく、信頼をもって神の愛と出会うことです。 この神の愛ともう罪を犯さないという決意がただ私たちを解放し、変容させます。 もし私たちが自分を罪人であると認めないなら、私たちには誰も必要ではなく、特にイエスは必要ではありません。
罪人には、多分自分の罪だけを見ようとする傾きがあります。 しかしながら、正しい人には、他の人の罪しか見ないという傾きがありあす。 大切なことは、神の慈しみの眼差しが正しい人にも罪人にも注がれているのを理解する事です。 私たちを救い、私たちに命を与える信仰が生まれるのは、この理解からです。 悪と善とが交じり合っている自分が、神からありのままの姿で愛されていることを知るのは信仰です。 神の愛は自分自身に対する、また他の人に対する私たちの眼差しを変えます。 この眼差しから生まれた信仰は、私たちをあらゆる偏見から解放し、他の人との相違を尊敬するように招きます。 この信仰は私たち自身と他の人達に対する神の赦しを望ませます。 この信仰はまた、私たち自身にも人を赦す恵を与えます。 ですから、信頼を込めて神に向かって叫びましょう!「主よ、私たちのうちに信仰を増してください。」 アーメン
年間第12主日 C年 2010年6月20日
ゼカリヤ書 12章10,11節13章1節 ガラテヤの信徒への手紙 3章16−19節 ルカ9章18−24節
ルカ福音書の始めの8章で、人々はイエスについて驚き、彼は一体何者かと自問します。 ベトレヘムの羊飼い達、エルサレムの神殿の学者達、ナザレの人々、ファリサイ人たち、みんなが同じ質問をします。 イエスが権威をもって語り、奇跡を行う時、人々は「この人はヨゼフの息子ではないか?」と言います。(ルカ4章22節) 彼が罪を赦すと、人々はショックを受け、不快になります。 「神を冒涜するこの男は何者だ?」(ルカ5章21節) 憐れみのないメシヤを告げた洗礼者ヨハネでさえ、イエスの柔和さにショックを受け、自分の弟子たちを通して、「来るべき方はあなたでしょうか? それとも、他の方を待たなければなりませんか?」(ルカ7章18節)とキリストに問いただします。 嵐を静められた時には、弟子たちも驚いて、「一体この方はどなたなのだろう?」(ルカ8章25節)と言います。 悪霊に取り付かれた人達だけが、イエスの神秘を見分ける事が出来ます。 「あゝ、ナザレのイエス、かまわないでくれ。 われわれをほろぼしにきたのか。 正体は分かっている。 神の聖者だ。」(ルカ4章34節)と書かれています。
イエスが誰であるかを知る事は、ルカのメッセージの中心です。 イエスが一人ひとりの弟子に「私の後に来なさい。」と言われた時、皆、何の質問もせず疑問もなしにすべてを捨てて、彼に従がいました。 誰一人「あなたはどなたですか?」と聞きませんでした。 彼らの中の一人が勇気を出して「あなたは何処に住んでいますか?」と聞きました。 そのために、何ヶ月か一緒に住んでから、イエスご自身が彼らに問いかけます。 「群集は私の事を何者だと言っているか?」(ルカ9章18節)と。 弟子たちにとって、あちこちで聞いた事を繰り返すのは簡単なことです。 彼らは何の恐れもなく答える事ができます。 というのは、それは彼らの考えではなく、他人の考えだからです。 そこでキリストは彼らを追い詰めて、「それでは、あなたがたは私を何者だと言うのか。」(ルカ9章20節)と訊ねます。 勿論、皆、黙っています。
信仰は対話ですが、個人的な対話です。 即ち、神に知っている事、考えている事、信じている事を言わなければなりません。 ペトロは沈黙を破って、誰でもユダヤ人であれば信仰に基づいて答えられる事を言います。 彼はイスラエルの民の期待を述べます。 「あなたは神からのメシヤです。」(ルカ9章21節)と。 ペトロもイスラエルの民も、実際、ローマ人を追い出す政治的な救い主を待ち望んでいます。 そういうわけで、イエスはメシヤの本当の役割が何であるかを説明する為に、ペトロをしかって、「メシヤは多くの苦しみを受けてから 殺されるしもべである」と言われます。 この種類のメシヤは、軍隊の強い力と武器の威力で支配するのではなく、むしろ愛の強さと生命の力で支配します。 それ故、彼は復活する事で、悪と死に打ち勝ちます。 救いの印は、皆、一人ひとりが掴むべく招かれている十字架です。
このキリストの答えは何時でもまた何時までも分かりにくく、信じにくいでしょう。 しかしながら、この答えは神と隣人に対する私の眼差しを変えます。 キリストが誰であるかをいうために、私たちは答えの言葉をどれほど使っても、使い尽くすことはないでしょう。 イエスは私たちに同じ答えを何時も出します。 それは十字架です。 十字架は神と人間との出会いの印です。 十字架は確かに人間の救いの印であると同時に神の無限の愛の印です。 十字架は私たちの信仰の対話の中心であり、その対話は個人的なものです。 すべての典礼の式は、十字架の印で始まり、十字架の印で終わります。 と言うのは、この十字架は私たちを一致させるからです。 十字架の印は一緒に一つの声になって、キリストにおける私たちの信仰を宣言する恵を与えます。 「すべての舌が『イエス・キリストは主である』と公に述べて、父である神をたたえるのです」(フリピの信徒への手紙2章11節)
キリストの質問に皆を代表して答える時、ペトロは何を言っているか全く分かりませんでした。 私たちも同じように、キリストは神の子であると確信をもって宣言する時、何を言っているか理解するでしょうか? 私達が宣言する事を理解するには、聖霊の光を願いながら、度々十字架を仰ぎ見る必要があります。 特に、愛によって私たちに唯一の子を与えられた父なる神に感謝しましょう。 なぜなら御独り子は私たちの人生に意味を与え、イエスは私達の救い、永遠の栄光であるからです。(Uテモテへの手紙 2章10節参照) アーメン。
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